東京高等裁判所 昭和28年(ネ)552号 判決
よつて控訴人が昭和二十六年三月十九日なした前示解約申入の効力について判断するに、前示中第二号証の一、二の記載、証人樋口延次郎並びに控訴人本人の各尋問の結果と原審における第一回検証の結果とを合せ考えると、控訴人が相当大きくなつた孫娘等五人と樋口延次郎宅二階四畳半、六畳の二間(箪笥、机、ミシン、本箱等の置いてある)に寝起きすることに手狭を感じ、苦痛を覚えていることは前示解約申入をなした当時から現在に至るまでなんの変りもないことが認められ、従つてその六十才を越えた老令の身をもつて孫娘等と二階暮しをしている不便と苦療とは十分に察し得られるのであるが、一方成立に争のない第三号証、第六号証の一ないし八の各記載、原審における証人茂呂治三郎、原審並びに当審における長谷川義平(原審は第一、二回)被控訴人本人の各尋問の結果並びに原審における第二回検証の結果を綜合すると、被控訴人はもと東京浅草三筋町で袋物問屋を営んでおつたのであるが、空襲を避けるため、得意先の長谷川義平を介して、昭和十六年八月本件家屋を借受け、これに病妻と病弱の娘一人を疎開させ、自らは唯一の男の子と共に三筋町の家で商売を続けていたのであるが、空襲の心配も大分薄らいだので、一年足らずで妻子を引揚げ上京さしたが、昭和十八年に至り頼りにしていた唯一の男の子は応召するし、病弱の妻と娘だけでは到底営業を続けることができず、且つ空襲の心配もあつたので、再度疎開のため前記長谷川義平を介して同年九月当時空家となつていた本件家屋を賃借し、空襲の危険の濃化した昭和十九年三月に三筋町の借家を引払い、営業用什器も売払い、且つ廃業届もして本件家屋に妻と一人娘との三人で引越したが、戦争が終つてからは上京の機運に恵まれないまま徒食していたが、生計の資に不安を来したばかりでなく、頼りにしていた唯一の男子は復員後戦病死したので、終戦後一年半位経てから、本件家屋が下館町駅前大通りに面して商業に適しているところから、表の三坪のコンクリート土間に陳列台等を出してもとやつていた袋物商を営み、以来辛じて生活して来たが、昭和二十八年に至り、七十才に垂んとする老妻が婦人病のため下館町所在の下条病院にて手術を受け、予後不良のため東京大学附属病院に入院再手術を受け、目下静養中であり、剰さえ一人娘は病身であつて、今日の被控訴人家の経済状態は甚しく窮迫していることが認められ、従つて被控訴人としては、本件家屋を強いて立退くようなことになれば、住居に困難するばかりでなく、七十才を越えた老令の身で特に財産というべきものなく、また他に力になる身寄りとてもなく、病弱老令の妻と病身の一人娘とを抱えては忽ち一家路頭に迷うべき事情にあることが察し得られるので、この場合控訴人が被控訴人に対して本件家屋の明渡を求めることは、難きを求めるに等しいものというべく、従つて解約明渡を求める正当の理由がないものといわざるを得ない。控訴人は、被控訴人は、控訴人側の理をつくした明渡の交渉に対して毫も協調的精神を示さず、調停の際には十年間居住し、無家賃、且つ退去の際は引越料を支払えと要求して譲らず、自らは現在に至るまで、なんら移転する家の発見に努力を払わず、ひたすら現状に固執して、控訴人の犠牲においてのみ自己の生活を維持している旨主張し、原審並びに当審における証人樋口延次郎並びに控訴人本人の各尋問の結果はこれに吻合するか、これを原審並びに当審における被控訴人本人尋問の結果と対比して考えると、信用することができない。却つて右被控訴本人の供述によると、同人は移転先の発見に努力したが、適当な店舗兼住家が見当らないため、本件家屋に住んでいるのであり、調停その他の場合にも、他に適当な移転先がなくて本件家屋を明渡しては、忽ち一家路頭に迷うことになると述べて、明渡交渉に応じなかつたことが窺われる。又甲第三号証の記載によると、控訴人は同号証記載の貸家二軒を探し出して、これを昭和二十八年八月二十九日被控訴人に通告していることが窺えるが、これに関する被控訴人本人の当審における供述によると、右貸家のうち一軒は被控訴人の現在の資力では借受けることができないし、他の一軒は適当な移転先でないことが窺われ、前示証人樋口延次郎の当審における証言によりても、これを覆えし得ないので、右通告の事実を採つてもつて、上記控訴人の主張事実を肯認する資料となし難い。他に該事実を認め得る証拠はない。次に控訴人は、本件家屋全部の解約明渡を求める正当の理由がないとしても、少くも被控訴人は、本件家屋のうち西方に面する六畳一間とその側椽を明渡し、便所を共同使用としても困らない事情にあると主張するが、原審における第一、二回検証の結果と原審並びに当審における証人樋口延次郎、控訴人本人、控訴人本人の各尋問の結果とを合せ、更に当審における証人長谷川義平の証言をも参酌して考えると、控訴人は差迫つてその現住家屋を立退いて被控訴人と同じ屋根の下に住まわなければならないほどの事情にはなく、しかも独住いを欲すれば、他に適当な家を得られないことはない経済的余裕を有するに反し、被控訴人にとつては、右部分を明渡すことは、病弱老令の妻と病身の一人娘を擁して営業して行く上において、本件家屋全部の明渡をなしたと同一の結果を招来すべき事情にあることが認められ、他にこれを覆えして右控訴人の主張事実を肯認するに足る証拠はないので、この場合控訴人が被控訴人に対して本件家屋の上記部分の明渡を求めることも、難きを求めるに等しく、従つてこの部分の解約明渡を求める正当の理由がないものといわざるを得ない。以上の次第であるから、控訴人のなした前示解約申入は、その正当事由を欠き、効力を生ずるに由ないものである。